みなさん、こんにちは!なお丸です。
普段、旅行やビジネス、美味しいグルメを求めて多くの人で賑わう「宮崎ブーゲンビリア空港」。南国の明るい雰囲気がいっぱいの場所ですが、実はそのすぐそばに、宮崎の歴史を深く感じられる場所があるのをご存知ですか?
記憶に新しい出来事として、2024年10月に宮崎空港の誘導路で突然不発弾が爆発し、滑走路が閉鎖されるという大きなニュースがありました。「なぜ今の時代に空港で不発弾が?」と驚いた方も多かったのではないでしょうか。
実は、その理由は約80年前の歴史に隠されています。今の華やかな宮崎空港は、かつて「海軍航空宮崎基地(旧赤江飛行場)」という、南九州最大級の特攻基地(作戦基地)だったのです。当時の激しい空襲の記憶が、今も滑走路の下に眠っていました。
今回は、あのニュースの背景にある宮崎空港の歴史と、空港のすぐそばに佇む「宮崎特攻基地慰霊碑」について、私の視点でお伝えします。いつものお出かけの途中に、ちょっとだけ心がじんわり温かくなる寄り道スポットとして、ぜひ最後まで読んでみてくださいね。
宮崎空港の前身「旧赤江飛行場」と不発弾の歴史
今でこそヤシの木が並ぶ美しい宮崎空港ですが、太平洋戦争の末期には、激しい戦争の舞台となっていました。
当時は「赤江飛行場」と呼ばれ、数多くの若い特攻隊員たちが、日本の未来を願ってここから空へと飛び立っていった場所です。そのため、敵国からの激しい爆撃(空襲)を何度も受けることになりました。
当時の爆撃で落とされ、不発のまま地中に埋もれてしまった爆弾が、時を超えて姿を現したのが先日の不発弾ニュースの真相です。私たちが何気なく利用している滑走路のすぐ下には、今も80年前の歴史の破片がしっかりと繋がっているのだと気付かされます。

開隊と特攻:1943年に練習航空隊として始まり、1945年3月から特攻隊が出撃。
激しい空襲:施設は破壊され、決号作戦の準備中に甚大な被害を受けた。
残された記録:未帰還機134機、搭乗員327名という犠牲が、当時の激しさを伝えている
空港のすぐそばに佇む「宮崎特攻基地慰霊碑」へ
そんな宮崎空港の西側、レンタカー会社などが並ぶエリアの近くに、ひっそりと「宮崎特攻基地慰霊碑」が立てられています。
現地に足を運ぶと、まず私たちの目に飛び込んでくるのがこちらの解説看板です

看板には、宮崎基地から飛び立った385柱と県出身の414柱、計799柱の英霊が祀られていることや、当時の機体「銀河」や「飛龍」がイラストで描かれている。
現地でその空気を肌で感じた際、あまりの厳粛さにカメラを向けることができず、あえて碑の写真は撮らないという選択をした。その重みは暗さではなく、平和への感謝を感じる静かな場所であったため、この2枚の解説看板の写真を通じて現地の雰囲気を伝える。
また、敷地内には19歳で出撃した永峰肇飛行兵長の遺書なども刻まれており、現代の平和がいかに尊いものかを深く考えさせられる。
なお、場所は空港のすぐ近くで車も停めやすく、旅の途中に訪れやすい場所だ。
周辺に残る戦争遺構「掩体壕(えんたいごう)」
宮崎空港の周辺には、慰霊碑だけでなく、当時の飛行機を敵の空襲から守るために作られたコンクリート製の防空壕「掩体壕(えんたいごう)」も、草むらの中にいくつか残されています。
私はまだ掩体壕の敷地内までは行ったことがないのですが、空港のすぐ近くにこうした本物の歴史の跡が今も静かに佇んでいるそうです。
ただ歴史を本の中だけで学ぶのではなく、こうして自分たちが普段使っている場所のすぐ近くに遺構が残されているのを見つけに行くのも、大人のちょっとした歴史の謎解き(タイムスリップ)のようで、「不思議と歴史のロマン(または時の流れ)を感じますよね」。今度空港に行く機会があれば、私もぜひ探してみたいと思っています。
まとめ:今の青空がある幸せを感じて
今回は、宮崎空港の知られざる歴史と「宮崎特攻基地慰霊碑」についてご紹介しました。
8月には終戦の日を迎えます。もし旅行やビジネス、あるいは美味しいご飯を食べに宮崎空港を利用することがあれば、ぜひ出発前や到着後に、少しだけ時間を取ってこの慰霊碑に足を運んでみてください。
慰霊碑の前に立つと、宮崎空港へ発着する飛行機と、宮崎の綺麗な青空がとても大きく見えます。
当時、この場所から飛び立っていった若い隊員たちも、きっと同じ宮崎の美しい青空を見ていたはずです。今、こうして平和に飛行機を眺め、美味しいグルメを楽しめる日常のありがたみを、改めて深く感じられる素敵な寄り道スポットです。
ぜひ、みなさんも次回の空港ドライブの候補に入れてみてくださいね!
すきっちゃみやざき 
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